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 窓からみえるのは、どこまでも遠く続いている、灰色の世界だけだった。灰色の庭には名前も知らない、葉の固そうな木しか生えていず、この庭の向こうには広大な灰色の湖が麻酔をかけられた患者のように横たわっているはずなのに、対岸は見えない。さらにその先には、想像できるだけだがたしかに案内所には出ている、ダン・ドッシュの山頂があって、そこにはすでに雪がちらほらと降っているはずだった。もう9月も末で、シーズンは終わっていた。観光客は引き上げてホテルの料金は割引になり、湖畔のこの小さな村には客を呼べるようなものはほとんどなかった。もともと愛想のない街の住人たちは、暗い雲の下で黙り込むことが多くなった。その雲は、幾日も低くたれこめていたかと思うと急に晴れ上がり、打ってかわって彩りと活気に溢れた風景が現出した。湖上をボートが水を切って走り、船着き場には乗客が姿を見せ、野外市が立ち、13正規の城の不気味な廃墟が浮かび上がり、はるかな山並みの白い残雪線がきれぎれに見えた。そして、南にひろがる明るい台地には、りんごの林が上へ上へと伸びて、日に輝いているりんごが、奇しくもこの土地の特徴を語っていた。ここは人智によって開発された実り豊かな土地で、すでに偶発的な要素は克服されていた。困ったことに意のままにならないのは、天候だけだった。

 イーディス・ホウプは、もっと派手なペンネームでロマンチックな小説を書いている作家だったが、いま窓際に佇んだまま、世話を焼かれて眼前の神秘的な不透明な世界を壊されるのを恐れているかのように動こうとしなかった。だが彼女にはすでに、明るく爽やかな生活と、いかなる幻想とも無縁な気候と、実用的とは言わないがあくまでも常識的な環境が約束されていたーー静かなホテルと、美味しい料理と、ながい散歩を楽しんで、興奮する気遣いもなく、夜は早く寝られるのだ。これで彼女は真面目で勤勉な本来の自分に立ち返り、どう見ても客のいないこの国外のホテルでしばらく暮らす結果をまねいた情けない過ちを、忘れられるはずだった。もう日ごとに光が弱まろうとしている季節で、ふつうなら故国の家にいる時期である。だが、とつじょとして彼女の敵にまわったのは、その故国の家だった。はたして家と呼べるかどうかも怪しかったが。だから、すこし休んできたらと友人たちに言われたとき、彼女はわが身を襲った出来事にやや怯えておとなしく従うと、同じアパートにいる友人ペネロピ・ミルンの車に乗せられて空港へ向かったのだ。ペネロピはかたく口を結んでいたが、イーディスがしかるべきあいだ姿を消した上、すこしは老成して賢くなり、それなりに悔恨の情を抱いて帰ってくるなら許してもいいといった。わたしはまるで無邪気な娘あつかいで、ゆるしてもらえないのか、とイーディスは思った。だが、それも当然ではないだろうか。もっと分別があっていいはずの真面目な女で、無謀なことなどする年齢ではないと友人たちにも見られているのだ。外見はヴァージニア・ウルフそっくりだという人も、幾人もいた。れっきとした世帯主で、きちんと税金を納め、料理もするし、締め切り前に余裕をもって原稿を渡す人間なのだ。求められれば何にでもサインするし、自分のほうから出版社に電話をかけたりもしない。すべて順調なことはわかっていても、自分の書くものについて注文をつけたりはしないのだ。もうかなりの年月、わたしはこういう、いささか地味な、人を疑おうとしない人間としてやってきた。他人からは面白みのない人間だと思われていることは確かでも、自分では退屈している暇などありはしなかった。謙虚な女だと見られていて、わたしを理解しているつもりの人々はみんな、こういう生き方をつづけていけばいい、と思っていたのだ。この灰色の孤独のなかで傷を癒したあとは、きっと戻ることを許してもらえるだろう。ーーこの庭の木の葉はまったく動こうとしないーーそしてまたあの穏やかな生活に戻り、あの、たしかにとんでもないことをしでかした以前の自分に戻るのだ。もっとも、正直にいえば、しでかしてしまった以上、反省する気などありはしなかったのだが。しかし、今度は反省しよう。必ず反省するのだ。

 彼女は窓の向こうの単調な風景に背を向けて、室内を眺めた。すべてが焼けすぎた仔牛肉に似たえんじ色をしていた。えんじのカーペットにカーテン。えんじのカバーの掛かった高くて狭いベッド。簡素な小さいテーブルとその下にきちんと収まっている簡素な椅子。幅の狭い質素な洋服だんす。そして頭上はるかな天井には真鍮の小さなシャンデリアが下がっていて、まもなく8個のたよりない電球には薄暗い明かりがともるのだろう、と彼女は思った。こわばった白いレースのカーテンはそうでなくても弱い光をさらに弱めていたが、これを両側にひらくと床までの細長い窓があって、幅の狭いバルコニーに出ることができ、そこには、緑色に塗った鉄のテーブルと椅子がおいてあった。天気がよければあそこで書いてもいい、と彼女は思うと、鞄の方へ行って細長いフォルダーを二つ引っ張り出した。その一つには「月影の下」第1章が挟んである。彼女は人生のこの奇妙な休止期に、おちついてその原稿と取り組むつもりでいた。けれども手が伸びたのはもう一冊のフォルダーの方で、それを開いた彼女は本能的にテーブルに歩み寄ると、万年筆のキャップを外し、周囲のことなど全く忘れて、固い椅子にすぐ腰をおろした。

「最愛のデーヴィッド」ーーと彼女は書いた。

「冷え冷えとした気持ちできました。ペネロピは囚人を被告席から凶悪犯の独房へ護送でもするように、じっと前をにらんだまま車を飛ばしました。わたしは話がしたかったのですがーー飛行機へは毎日乗るわけではないし、お医者さんからもらった錠剤がきいてきておしゃべりにもなっていたのです。