諦めて生きること

朝、メトロの駅までのわずかな距離で、たくさんの言葉が浮かんでは消え、書き留めなければと思うのに、こうしていざかける環境でパソコンの前に座った頃には、すっかり忘れている。

まる二日隠遁生活のようなことをしていて、ものすごい筋肉痛とともに目が覚めた。あと4日ほどはこんな日が続くのだろう。

結局のところ、ナルシストが大嫌いで、他人の文章の二番煎じで生きていくことをやめた。かといって自分の文体が確立されているのかと言えばそれも40年以上生きてきて、ない。一生を探し続けて終わる気がしている。

大きな守られたお城での生活はそれなりに楽だったけれど、そこから飛び出した自分を後悔はしていない。だからあとは落ちていくだけなのだということを、最初の10年ほどをかけて、じわじわと身に染み込ませている。未来がないときに人は二つの方法しかないのではないか。自分のために生きる、または他人の役に立つ、このどちらかだ。

作家ではなくとも、世の中の大抵の人間は自分の人生をもとに一本ぐらいは長編小説がかけるものだというのが通説だ。太宰だか芥川だかが、「小説を書くのは簡単だ。いったん頂点を極めて、そのあとに落ちればいい」と言っている。これのアメリカ版が要するにグレート・ギャッピーの世界なのであって、栄華のあとの崩壊の仕方なんて、人の数ほどある。つまりその数だけ小説は生まれる。

わたしはわたしの人生を諦めてしまったのだろうか。とある地点にいて、そこからさらなる高みを目指したいがために海外に出てきたはいいが、失われたその地点こそが自分史上最頂点であり、あとはどんなに登っているように見えても実際は転げ落ちている現実を、受け入れるだけの体験なのではないか。

100年後には今生きてる大抵のひとはいないだろうとおもう。と考えると、40年や80年の人生、どう生きようが世界にほとんど影響を及ぼさず、ましてや歴史に刻まれることもないだろう。

あらゆる芸術分野で、過去の偉大な作品を乗り越えることができず無名で終わる人生をたいていのひとは受け入れている。もちろん情熱と現実生活との比率は人ぞれぞれだ。

ある人は死の直前までモーツアルトやベートーベンを越えられなかったことを悔やみながら一生を終える。また別のひとは、神童に生まれなかったことを早い段階で認知し、それでも偉大なる旋律の中に身をひたし生涯をアマチュアとして生きることで折り合いをつけようとする。いずれにしてもその分野にかかわった一生を最後に「豊かであった」と思えるように。

デュマを、モーパッサンを、ドストエフスキーを越えられなかったからといってなんなのだろう。作家になりたいと願う権利は誰にでもあって、人生のさいごまで無名でも、そこにしがみついていた自分が誇りに思えればそれでいいのではないか。思ったり、願ったものの勝ちだ。それだけは誰にも強制できない。

諦めて生きるには人生は長すぎる。