自分の階級で生きること

40を過ぎ、人生の折り返し地点にきたと言っていい歳(もしかしたらトンデモナイ医療や技術の革新で人間は死なないようになってるかもしれないが)にきて、残りの半生で何ができるか考えてみた。

40過ぎても相変わらず海外ドラマや映画を飽きもせず見続けて、そこから何かしらの人生の教訓を得ているじぶんだけれど、このさき80になるまであと40年もある。その長い時間を、自分と他人、どちらのためにより多く生きたと言えれば、この一生はまあ悪くない、と思ってこの世を後にできるだろう?

この世にあふれるたくさんのエンタメで単なる「暇つぶし」にして過ぎていく1日1日が、残りの40年の1日となるのだとすれば、結局40年経った後も、変わらずこうして映画をみてドラマをみて、虚構の世界で空想の人生(それはわたしが選ばなかった、あるいは選ぶまでもなく与えられなかった)の蓄積にすぎないんだろう。「自分が死ぬ日」という誰にもはっきりと事前には知ることのないタイムリミットまで繰り返す。それには人生は長すぎる。

本や、映画から得た教訓を、活かして何か行動にうつしてこその人生だ。ただ過ぎていく日々を海外ドラマでつぶしているような気がして、ほんとうはもっと切実なことがあるんじゃないかという気がして怖い。「何かに必死で取り組んで、それこそ、じぶんが映画の中の主人公のように生き切らなくてはダメなんじゃないか」。言うまでもない。

でもほかにやることも行くことも関われる他人もいないとき、毎日の日常の繰り返ししか残っていない時、週末もクリスマスも新年も一人で迎え、あとそれを40回は繰り返すのだと思う時、やっぱり「物語をこころの支えにして誰にも迷惑かけないで生きることのどこが悪いのだ」と半ば開き直った思いすら抱く。

自分の階級で生きること、というなんだかとっつくしまもないタイトルで書き出してしまったけれど、やっぱり人にはそれぞれの役割や地位があって、自分にあった階級でいきていくしかないのだと思う。いったん落ちればとことんおち二度と這い上がれないこの社会の鎖のなかで、じぶんの位置を早い段階で相対的に認めることができ、受け入れた者が勝つのだろう。

昔ほど、ドラマや小説の主人公に思い入れなくなった。ひとつにはストーリー構成は幾つかの大まかなパターンに分けることができて、どんな変化球がきても、以前ほどいちいち感動したり涙したりしなくてよくなったということだ。

もうひとつには、やはり諦めだろう。自分がスクリーンの中の主人公には決してなれない、ここを出たらまた同じメトロにのって同じ孤独の繰り返しだということに気づかされるから、それによって自分の人生が大きく変わるなどという過度な期待を持たなくて済むようになったせいかもしれない。

人は成長し続けるし、去年と今年は同じではいられないし、変わりつづけて行くものだからそれで良いのだろう。人は諦めを噛み締めながら、いつしか寛容にたどり着けるのか、と思う。